情況の囚人

情況の囚人ー1971年”スタンフォード監獄実験”とは
【引用始まり】 — 【SPE】1971年、米海軍は海兵隊刑務所で相次ぐ問題解決の為に、ある実験を準備し、資金を調達した。実験はスタンフォード大学の心理学者フィリップ・G・ジンバルド博士を中心に組織され、同大学の講堂を刑務所に仕立て、模擬的な刑務所シュミレーションを行うというものだった。新聞広告によって集められた心身共に健全な被験者らは、無作為に囚人と看守に分けられ、実際の刑務所とほぼ同じ環境の中で、二週間を過ごすことが予定された。しかしこのとき、まさかこの実験が後々まで問題となる大きな事件になろうとは、その時、被験者も研究者も、誰一人想像だにしなかったのである。(写真上はこの事件をモチーフにした映画「es[エス]DAS EXPERIMENT」より。以下は当時撮影された実際の写真)【引用終わり】 —

これは以前書いた人が育ってポジションにつくのではなく、ポジションが人を育てるのだにも関連することだと思うのですが、人というのは与えられた役割に対して柔軟に適応しようとする生き物だということが伺えます。そう考えると今の自分というのは「こうあるべきだ」と周りから、自分で思っている(思い込んでいる)役割を必死で演じているだけなのかもしれません。

【引用始まり】 — つまりこれら実験が提示したひとつの事実とは、ある集団の中の個人が、その個人的性質、行動傾向よりなお、情況下における命ぜられた(または自任した)集団内の役割を ― 意識的にせよ、無意識的にせよ ― 優先し、時にそれが恐ろしい結果を引き起こすことさえままありうるということである。そしてまた、これが刑務所や戦争という特殊な情況下に限られた出来事であり、我々の日常生活にはまるで無関係な話であると、一体誰に断言することができるだろうか【引用終わり】 —
ポジションという細かい階層でも言えますが、大きく分ければ職業というものが一番状況下で現れやすい性質を持っていると思います。
例えば10年前のアメリカのジョンベネちゃんの事件でも過去に日本でも何度もメディアやドキュメンタリーで取り上げらてきましたが、その理由の一つはアメリカのメディアによる父親の性的暴行疑惑、母親の嫉妬説、ジョンベネちゃんの検視写真や遺体発見現場の写真の掲載に踏み切るなど過熱しすぎたマスコミ報道にありました。ペンは剣よりも強しという言葉があるように、メディアという職業に就く人々は報道の自由を盾に何をしても許されると思い込んでしまうのです。それはその人の性質に由来するものではなく、マスコミという役割が人をそうさせてしまうのかもしれません。またメディアで「犯人はこの人だ」と何度も報道されると「そうなのか」と思ってしまうということも与えられた状況と言えそうです。今回逮捕された犯人も本当に犯人なのかということは分かりませんし。

また、加藤紘一衆院議員の実家が全焼させられた事件がありましたが、彼の発言の中に「政治家としては、周辺諸国の不快感をいたずらに煽るような行為はいかがなものか」とあるように「政治家として」という言葉の大好きな方です。典型的な「政治家」としての自分はどうあるべきかという枠にはまってしまっている人なのではないかと思います。実際に政治家ではあるのですけど、それに比べたら「政治家ではあるがその前に一人の人間である小泉純一郎が靖国に参拝したのだ」という小泉首相の方が親しみも説得力もあります。

人間は集団心理や型にはまりやすい生き物であって、自分は人を殺せないと思っていても戦争では命令されれば殺してしまうという脆い生き物でしかないのです。そしてそうすることは、結果的に自分を周りになじませ身を守ることに繋がるというのが事実なのでしょう。だからこそ、ぼくらは型にはまらない人間に憧れてしまうのかもしれません。

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1983年大分県生まれ。東京在住のWeb系エンジニア。
ポータルサイト、ファッションECサイト、コーディネートアプリ、食品ECサイトの開発運用などを経験。
人に役立つことや面白い記事を書けたらなと思っています。